優子の戯論


◎ 泥華(蓮)

 「花を美しいと感じるのは花そのものが美しいのでしょうか?それとも、心の内に美しさがあるのでしょうか?」と命題を頂き、気功クラスでの瞑想時に皆でそれぞれの心に問うてみました。
  皆さんの答えには、
 「花の美しさに自分の心が癒やされ、そして花の美しさを感じられるようになる」
 「草花のけなげさを解し美しいと感じる」
 「全ては相対的なもの。自分の心に美しさがあってこそ花の美しさを感じることができる」
などがありました。
 私はといいますと、命題を観じようとした瞬間、まばゆい光に照らされました。
 そして、蓮の花の前で瞑想しているエキゾチックな女性の姿が見えました。
 自分の前世かなと思い、その女性の中に入ってみました。
 そして、その女性の視点で蓮の花を見つめました。
  「あれ…? 私、蓮だったことがある」と思いました。
 蓮そのものの形ではないのですが、同じ構成要素で同じ結合の仕方の存在だったことが確かにあったと感じられたのです。
 それから、「岩石だったこともある」と思えました。
 岩石の構成要素と結合を持った存在だったことが確かにありました。
 岩石である私の粒子は愉しげに動いていました。
 「もしかしたら、木火土金水、全て経験してきたのかな…」と思った時、瞑想の終了時間が来てしまいました。
  
 花を見て美しいと思うのは…
 かつて私も美しい花だったことがあって、いまも心にその波動が残っているからでしょうか…
 それとも、いまも私はヒトであると同時に花であるからでしょうか…
 または、私の思いもしないような全く別の理由でしょうか…
 これからもこの命題に関する瞑想は続きます。

 あなたは、どう思われますか?

 

 花を観じ続ければ、花の形は消え、その実相が現われます。
 石を観じ続ければ、石の形は消え、その実相が現われます。


 この記事に関連するお便り↓
 837 838

優子の戯論(けろん)へ戻る


topへ戻る|