◎ 506 神奈川県Kさん(男性)
池田先生、石倉さん☆
お世話になっております。
Kです。
今週中は30℃超えっぱなしらしいです。ご自愛下さい。
石倉さん、こないだの扇子さばき最高でした(笑)
先週の水曜クラスにて、今月分の水曜クラス費と星月瞑想費を納めたので、僕にも泳想観のやり方をそろそろ教えてやって下さい☆m(_ _)m
それと観心想についてのご質問があります。
コース長引き過ぎですねぇ…すいません。
でも出来るだけ自分で分かりたいんです。
自由意思を尊重して下さりありがとうございます。
質問ですが、観心想が出来ているかどうかがわかりません。(疑問の大体は出来ているのか自分で判断しながら出来ないという傾向があるようです(´A`)裏を返せば自信が無いという“自分”がゆえにこの形をとっているかもですね( ̄―+ ̄)ニヤリ)
今のところ自分にとってマイナスな事を想起し、ただただ見つめると認識しています。しかし気持ちにフォーカスし続けて体感を増幅するのか、自問なのか(左脳的にどうしてそうなのか?と問い掛ける)…
いささかやり方がゴッチャになってきました。
というのも観心想の目的は真我にたどり着くことのハズ。
なので、フォーカスするよりも善悪や喜怒哀楽というタマネギの皮をいきなりむいちゃって、バッサリと大人の意見を見つけようとするモードに入ることが正しいとなってきました(これが上記の左脳的という理由です)
これはこれで内なる声のように瞬時に出ることが多いのですが、なーんか違うぞ?と…視点は貰えるが繰り返してしまうし終わりがわからなくなります。
まさか目的が手段になっとんのでは?と思った次第です。
このモードは間違ってますよね?
今メールを打ちながら、以前コースの6回目で初めて修した時、『セラピーみたいだ』となったことを思い出しました。
セラピーは深く対象に降りて行き、その時の感情や抑圧された感情を開放し昇華するもの。
昇華した後で同じ対象を想起しても大丈夫なのは体感できる質と量を出しきったから。
陰の自分を受け止めてあげて融合したから☆
ならば、前頭葉的に自問で誘導しても感情は残ったままになる。
この状態は出来事に対しての判断しか行なえて無い。
よってやはり『ただただ見つめる』というほうが良い。
観心想による真我(皮を剥ききった)とはフォーカスを増幅しきったプロセスを経てから見えてくるものですよね?
以上、今の私的な見解と疑問を交えてお送りしました☆
(^O^)/~~
暑い夏の夜に長文すみません!お答え頂ければ幸いです。
池田優子です。
観心想は、とにかく実修することです。
そのうちに、「あ!この感覚だ」というのが分かってきます。
また、対象の事柄を思い出しても感情が揺れなくなっていれば、出来ているということになります。
ただ見つめ続けるのです。
他のことをしては、小我が働き、ただの反省と同じになります。
あなたが聞いている内なる声は、深いところからでたものではありません。
それでも、良いインスピレーションを得ることはできるのですが、それを続けていても無意識の壁を破ることはできません。
セラピーは大我による観心想の一部です。
とりあえず、その段階までできれば合格ではあります。
そして、次の段階として、真我をもって大我を見つめます。
もっと言えば、真我によって小我を見ている大我の観心をするのです。
けれども、いまの段階では、大我での観心想をきちんと修得することです。
それさえも、本当の修得までには数年かかります。
また、頭で(前頭葉で!)あれこれ考えていても前には進みません。
観心想は、私たちの表面意識では捉えられないものを観るからです。
真我も大我も、私たちの表面意識が認識し得る領域のものではありません。