何かに導かれるように行った先は、何度もTVで見た被災した気仙沼港の姿でした。
もう見慣れたといってもよい筈の光景なのに、言いようのない圧迫感を感じます。
生ている者は入るなと言わんばかりの、まるで結界でも張られたような場所でした。
完全に時が止まり、気はビンと張り詰めて微動だにしません。
何かしなくてはと思うのですが、何をしたらよいか浮かんでこないのです。
とにかくお経か真言をあげようと思いました。
いつもならそんな時、どのお経をあげたらよいか、どんな真言を唱えたらよいか、インスピレーションが湧いてくるのですが、
この時ばかりは何も感じられません。
異界に放り出されたような感じで、暫くの間はただ「ありがとう」と繰り返すことしかできませんでした。
もう港を抜けるという頃になって、やっとお経の本を開くことができました。
そして、ご供養のお経を一通り読み、そして愛の気を送らせていただきました。
ですが、これで充分だとはとても思えませんでした。
それほど、あの空間の気は頑なに動くのを拒んでいたのです。
横浜へ帰っても、努めて気を送っています。
だいぶ空間の緊張は解けてきましたが、未だ充分とはいえません。
夜の祈りの時間などにご協力いただける方がありましたら、よろしくお願いいたします。
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気仙杉の木立を抜けて辿り着いた長部保育所は、小高い山の上にありました。
津波の被害は受けずにすんだので、建物が流された他の保育所の児童も引き取っての運営だそうです。
下の写真は、保育所の裏からの光景です。
家は数軒残るばかりで、山の際まで波が押し寄せたことが分かります。
児童はお散歩中ということで、保母の先生方に物資をお渡しいたしました。
おもちゃ、お菓子、保健用品などの皆さまからのお心のこもった品々をお渡しし、たいへん喜んでいただくことができました。
ここも被災していながら、建物が残ったばかりに、支援物資が届きにくいとのことでした。
実際、私たちが訪れたときもまだ給水車が来ている状態でした。
実はここで、現地とのコーディネーター役をしてくれている友人と合流する筈でしたが、叶いませんでした。
急に葬儀に参列とのこと。
身元不明の遺体の一つがお友達のものと判明し、急遽火葬となったのだそうです。
先生方とこれからも定期的に支援させていただくお約束をして、保育所をあとにしました。
なお、事実の概要につきましては、石倉が記しましたブログ「いざ陸前高田」をご覧ください。
報告Bへ続く。