次に向かったのは、保育所のすぐそばの長部小学校の避難所。
ここに避難した人々のほとんどはもう仮設住宅に移っていて、僅かに数組の家族が体育館を我が家として暮らしておられました。
物資も衣料などは充分にあるようでしたので、比較的需要がありそうな夏向けの保健用品や本を置いてきました。
小学3、4年生の子供たちが楽しそうにドッジボールをしていたのが印象的でした。
小学校の校庭には、建設中の仮設住宅や、仮設住宅に隣接して共同のトイレがありました。
これからの暑い時期、衛生問題や臭気の問題が大変だろうと感じられました。
夏季の支援は、保健用品、暑さ対策用品などが重要になってくるかと思われます。
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.さあ、いよいよ陸前高田市の市街へ向かいます。
途中の道にも、津波の爪あとが残っています。
下の写真は道路から写したものですが、損壊が見られない家のすぐ横に瓦屋根だけがあったり、全壊した家の残骸があります。
この辺りは広田湾から1.5kmくらいのところですが、道路を通って津波が上って来たのでしょう。
市街地へ入ります。
下の写真は気仙川が広田湾へ流れ込むところです。
崩壊した気仙大橋の橋桁が見えます。
少し見にくいですが、その左のほうにあるのは有名になった「奇跡の一本松」です。
変わり果てた市街地を通りながら、私の縁のあるお寺であり、避難所ともなっている金剛寺に向かいます。
この道の両側に、かつては人家や商店がひしめいていたなど、誰が想像できるでしょうか。
あまりに何もなくなっていて、ただ呆然としてしまいました。
さきほど通ってきた気仙沼よりも片付けられていたように思います。
それだけに、本当に何もないのです。
面影さえもないのです。
廃墟と化した空間の中で、方向感覚さえ失ってしまうように感じられました。
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気仙成田山金剛寺に着きました。
立派だった仁王門も、壮大だった本堂や枯山水の庭も、昨年新しくしたばかりの庫裏も、八十八ヶ所のお砂踏み場も、全てがなくなっていました。
2メートル近くもあるような大きな石碑が、ゴロゴロところがっていました。
かつて仁王門があったであろうところは、「成田の湯」になっていました。
中を覗くと、バスタブとすのこの洗い場があり、何枚かのタオルが干してありました。
階段の上を見上げると、津波を免れた不動堂の前にご住職がいらっしゃいました。
広田湾のほうを向いて、読経しておられます。
この日は奇しくも、震災から百ヶ日目だったのです。
私どもも黙祷いたしました。
読経が終わった後、不動堂へ上がってみました。
不動堂の横には数個のテントがあり、避難者の方々が生活していらっしゃいました。
ちょうどお昼の時分で、食事の準備を始められたところでした。
ご住職に食料、保健用品、京都の本山のタオル等の支援物資や支援金をお渡しいたしました。
テント生活の方々始め、近隣の被災された皆さまにお分けいただけるということで、大変喜んでいただけました。
下の写真は、不動堂から見たかつての仁王門のあたりです。
右側の青い小屋が成田の湯です。
津波のときはたくさんの方々がここまで辿り着いて難を逃れ、何日も夜を明かされたということでした。
上の写真は、本堂跡付近に建設中の仮設住宅。
慈母観音像を囲むようにして建てられていました。
不動堂付近にはつつじが咲き乱れ、黒アゲハが蜜を吸っていました。
報告Cへ続く。
なお、事実の概要につきましては、石倉が記しましたブログ「いざ陸前高田」をご覧ください。