金剛寺で墓参もしたのち、昼食の場所を探しながら北上しました。
当初は高田松原のあったところまで行くつもりでしたが、気仙大橋もその上流にかかっていた姉歯橋も流されており、かなり上流まで行く迂回ルートを通らねばなりません。
時間の関係と、松原でしたいと思っていた読経を金剛寺ですることができたため、松原行きは取り止めにしました。
実は陸前高田市は、1960年のチリ地震のときにも津波の被害に遭っています。
そのときも松原を越えて波が市街に入り、死者を出す被害を与えました。
「引き波で海に戻っていく波が、遺体を松の木のてっぺんに引っ掛けていったのだよ」と親から話を聞き、子供心を震わせたのを覚えています。
その後、堤防を高く強固にして、大津波に対する万全の備えをした筈だったのですが…。
下の写真は、大震災前のものです。
1本松の後方に見えている松原は、壊滅しました。
2万本の松を誇った高田松原でした。
★ ★ ★
上の写真は、気仙川の両岸の様子です。
ここは広田湾より10kmも北上したところですが、ビニールハウスは壊され、多くの瓦礫が堆積したままになっていました。
車の姿も見えます。
津波が気仙川を遡ってきたことがよく分かります。
昼食は「川の駅よこた」でとりました。
2日間分の食料は用意していましたが、できるだけ地元のお店を利用して、少しでも活性化のお役に立てればと考えました。
地元のお蕎麦やお野菜がとても美味しかったです。
しかし今後は、この辺りでも、とれた物に対する放射性物質の問題が深刻になってくるでしょう。
今はとにかく安否の確認、衣食住の確保、瓦礫の撤去が先決となっていますが、それらの見通しが立ったとしても、それからまた大きな問題と取り組んでいかなくてはならなくなります。
とても一市町村や一都道府県で対処していけることではありません。
今回の震災の被害の大きさや、私たちに投げかけた問いの大きさを感じずにはいられませんでした。
★ ★ ★
現地コーディネーター役をお願いした友人の復興企画室は、「川の駅よこた」のすぐそばでした。
のどかな田園の中を歩いて向かいます。
ここも陸前高田市、市街地より車で15分くらいの距離の場所です。
友人は消防団に属し、また市議を務めながら、陸前高田市の復興にあたっています。
復興企画室では貴重な写真や資料を見ながら話を聞くことができました。
その中には、消防署員が火の見櫓から撮った写真がありました。
消防署内で仕事をしていた方々は、津波が署の建物まで到達しそうだということで屋上へ上がったそうです。
ですが、津波は屋上をも越えそうだというので、火の見櫓へ。
4畳半くらいのスペースに10人余りが退避し、途中の階段にも数人が掴まって固唾を呑みました。
恐怖の中で向けたカメラには、迫り来る津波が写っていました。
それは波というより、水の壁でした。
火の見櫓の下を巨大な水槽がうなり声を上げて通っていき、またすぐにたくさんの人や物を連れて海へ帰っていきました。
その後、数時間して消防署員たちは自衛隊のヘリに救助され、休む間もなく他の被災者の救助活動に当たったとのことでした。
また、津波の報を受けて高台へ避難した人が、自分の家の辺りに押し寄せた津波の様子を撮った写真もありました。
1枚目は、通常の町並みです。瓦屋根の家々が軒を連ねています。
2枚目は、津波が家々を呑み込もうとしている写真です。
3枚目は、荒れ狂う水以外、何も写っていません。
4枚目は、引いていく津波。
そして5枚目、家々は跡形もなく、1枚目の写真と同じ場所を写したものとは思えませんでした。
この1枚目〜5枚目の間は、2、3分。
地震では壊れなかった家々が、あっと言う間に波にさらわれていました。
ほんの数分の間に町全体がなくなってしまったのです。
友人はビデオも観たと言っていました。
TV等で放映されたものと違って、編集されていないビデオです。
津波の轟音と、人々の悲鳴。
そして、流されていく人々の体…
そんな話を、友人は淡々と語ってくれました。
それから今後の支援のあり方などを話し合い、企画室を後にしました。
友人は皆さまがご支援くださった大量の野菜や果物を各仮設住宅へ届けに、私たちは当夜の宿泊地である住田町へ向けて。
★ ★ ★
がんばっぺし岩手、がんばっぺし陸前高田。
復興企画室に貼ってあったポスターです。
街の随所でも見かけました。
陸前高田は未曾有の被害に遭いましたが、それでも確実に前を向いて進んでいます。
天にはたくさんの守りと応援のエネルギー体がありました。
大地からは再生の大きなエネルギーが沸き上がっていました。
人の心には感謝のエネルギーが満ちていました。
報告D続く。
なお、事実の概要につきましては、石倉が記しましたブログ「いざ陸前高田」をご覧ください。