6月19日(日)の朝を迎えました。
前夜宿泊したところは、気仙郡住田町世田米の叔父の家。
陸前高田市の市街地から15kmくらい北上したところです。
熟成した大地の息吹に心がどっしりと安定します。
ここは気仙杉で有名なところで、近くに製材所もありました。
朝の自由時間に私以外のメンバーは、近くを散策することになりました。
天照御祖(みおや)神社や満蔵寺など、気仙大工の技が光る寺社が魅力です。
私は被災して家財を失った親戚がすぐ近くに避難していることが偶然分かり、訪ねました。
避難者名簿に名前がなく、心配していた家族です。
聞けば、市の職員だったため、名簿に名前がなかなか載らなかったとのこと。
名簿には一般市民の名前を優先して載せていったのだそうです。
今は、無人だった古い店舗に三世代で暮らしていました。
80歳を過ぎた叔母は、私を見ると不自由な脚で駆け寄ってきました。
私の心臓の鼓動を確かめるように抱きついてきて、叔母自身も生きていることを確認しているかのようでした。
泣きながら、「生きていればいい、生きているだけでいい」と何度も繰り返していました。
高田町の広い屋敷で暮らしていた叔母は、お嫁さんに背負われて津波から逃げ切ったそうです。
何度ももうだめかと思い、お嫁さんに何度も「置いていっていいから」と言っても、お嫁さんは叔母を背負い続けたとのことでした。
叔母の息子はここから車で陸前高田市街まで通っています。
震災前でしたら道が混むなど考えられない場所ですが、今は気仙川にかかる主要な橋が流されてしまったため、残った橋に殺到する車で大渋滞だそうです。
(7月に入り仮設の気仙大橋が完成し、渋滞もだいぶ緩和されたとのことです)
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宿泊している叔父の家に帰るとすぐ、小友に避難している従弟家族がやってきました。
小友地区は上水道は通っているが水質が悪いそうで、ペットボトルの天然水を支援物資として皆さんで分けていただくことにしました。
従弟は長年、酒造メーカーにおりましたので、とりわけ水には敏感なのです。
「昨日、陸前高田の街、見たんでしょ?」と従弟は話し出しました。
「何もなくなってしまって…。でも、本当に何もない街を見ていても、何故か悲しいとか感じないんだよね。不謹慎だろうか? ただ不思議だなあと思う…」
震災当日、従弟はたまたま仕事が休みで、奥さんの実家に居ました。
それで高齢の義父母を助けることができたそうです。
義父母を助けながら高台に避難し、そこで津波が街を覆い、引いていくのを見ていました。
引き波は従弟の買ったばかりの車を連れていったそうです。
そのときも、怖いとか悲しいという思いではなく、夢を見ているような不思議な感じだったと言っていました。
従弟の奥さんは養護学校の教諭です。
幸い校舎は高台にあったため、大きな混乱はなかったようです。
彼女は「義姉の遺体は、私が必ず探し出します」と言ってくれました。
可能性のある遺体が見つかったという連絡が入ると、飛んでいって確認しているのだそうです。
市の遺体の扱い方は驚くほど丁寧だということです。
身元不明のものは、少しでも手がかりを残すよう細心の注意を払ってくれているそうで、頭が下がります。
市の歯科医院は全滅のためカルテがなく、歯型は役に立たなくなってしまいました。
そのため、遺体の数は膨大であるにもかかわらず、一体、一体、毛髪を採取して保存し、また泥にまみれた着衣はクリーニングして保存し、遺族の照会に応えているそうです。
従弟夫婦の言葉からは、何か清々しいものが感じられました。
失ったものに対する執着がないのです。
全てを受け入れたのち、新たに出発した人の言動でした。
義姉の遺体を捜すという行為も執着からではなく、死者への尊敬からのものです。
義姉の死を受け入れたことで生まれた、新しいエネルギーからの行動です。
それはちょうど陸前高田の大地のエネルギーそのもののようでした。
大地はもう大震災を受け入れ、恐怖や悲しみのエネルギーを解き放ち、新しいエネルギーに満ちています。
陸前高田は以前の状態に復すのではなく、新たな素晴らしい街を創り上げていくのだと感じられました。
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さあ、叔父に別れを告げ、大東町へ向かいます。
叔父の家の近くには木造の仮設住宅がありました。
気仙杉を使った建物で、洒落たログハウスのような趣です。
夏は涼しく、冬は暖かいと評判の仮設住宅だそうです。
また、陸前高田支援ボランティアの基地もありました。
被災者も支援者も皆、前を向いて頑張っているのです。
報告Eへ続く。
なお、事実の概要につきましては、石倉が記しましたブログ「いざ陸前高田」をご覧ください。