池田優子です。
6月18日(土)〜19日(日)の岩手県陸前高田市等への支援活動についてご報告いたします。
まず初めに、今回の活動にご賛同くださり、支援物資や支援金、また作業のお手伝いといったご協力くださった皆さまに心よりお礼申し上げます。
皆さまからお預かりしました物資等は、陸前高田市及びその近隣地区へお届けしてまいりました。
その詳細につきましては、この報告の最後及び石倉が記しましたブログ「いざ陸前高田」に記載いたしました。
さて、6月17日(金)の夜、支援物資を積んで岩手県へと車を走らせました。
途中数箇所のSAに寄りながら、スムーズに一関まで走り、東北自動車道を降りると、市内の一般道には「亀裂に注意」などという看板もあり、身が引き締まります。
実際、道路はいたるところに亀裂や盛り上がりがあり、それまでの快適な高速道路走行とは打って変わった状態でした。
自衛隊の車両も行き来しています。
30分くらい走り、道の駅「かわさき」にて休息をとりました。
周りに広がるのは新緑の山並みと長閑な田園。
前来たときと変わらない、私の大好きな風景です。
行く手にも、以前のままの美しい高田松原が広がっているような錯覚を覚えました。
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一番初めの訪問は千厩(せんまや)に避難している私の親戚の家となりました。
支援物資(食品や日用品など)を渡し、地区の皆さんに分けていただくよう頼みました。
ここに住んでいる従妹は、津波で校舎が流された気仙小学校に勤めていました。
地震発生後、すぐに校庭に児童を並ばせ、避難の用意に入りました。
点呼をとって高台へ向かおうと、今一度堤防のほうを振り返ると、ちょうど堤防の上に波しぶきが見えたそうです。
児童に「あちらに逃げるのよ」と指示し、もう一度振り返ったときには、既に目の前まで水の壁。
それからは、無我夢中で児童をかばいながら高台へと走り…
途中、偶然にも脚の悪い彼女の母親に会い、児童と一緒に手を引いたり、お尻を押したりして安全な場所まで逃げ切ることができたとのことでした。
教員も児童も全員無事。
夜は、児童は優先してお寺や神社に泊めてもらうことができたので、母親とは別れて児童と共に蝋燭の下で過ごしたそうです。
とても寒く、何も状況が分からないまま蝋燭もいつなくなるかと不安な夜を三晩過ごすと、救援物資も届き始め、設置された避難所へ移ることができました。
その避難所から仕事場(彼女の小学校は津波の被害に遭わなかった小学校に間借りして授業を行なっています)へ通ったとのことですが、幸い食べ物もあり、物資も充分に届いて有難かったそうです。
避難所からは、住んでいた家の跡に何度も通ったと話してくれました。
位牌、家系図、アルバムなどの思い出の品々が、少しでも何か残っていないか…
瓦礫を掻き分けて捜しまわったそうですが、何も見つからなかったと残念そうでした。
物によっては思いもよらない所に流れ着いているものがあり、市ではそれらをまとめて展示しているそうです。
そうしたところにも足を運んだけれども、見つかっていないとのことでした。
淡々と状況を語ってくれた彼女は、6月末に仮設住宅へ引っ越しました。
エアコンを初め電化製品を日本赤十字社が揃えてくれて有難いと言っておりました。
次の訪問先は長部保育所です。
千厩からは気仙沼市の市街を通って行くことになります。
気仙沼の市街地に入ると、崩れかけた家が目立つようになりました。
活気のある商店街であったろう町並みも、悲しげな表情を見せています。
そして、市街地を抜けて陸前高田市へ入るはずが、方向感覚がおかしくなってきました。
港のほうへと導かれるのです。
周りを見ると、工事車両ばかりです。
道も大変な悪路となってきましたが、何故か引き返そうとは思いませんでした。
この先へどうしても行かなくては、という思いです。
なお、事実の概要につきましては、石倉が記しましたブログ「いざ陸前高田」をご覧ください。
報告Aへ続く。